westminorityの日記

東京大学大学院建築学専攻 川添研(2012〜)←隈研(〜2011) 雑誌「新建築」にて月評執筆中! 聖光学院 GSDy 「解体の作法展」 卒制「明日の世界企業-ケーススタディ:ユニクロ-」 環境デザインコンペ2012 第四回長谷工コンペ 生きるための家展

「解体の作法」に関する覚え書き<その1-3、レスポンスへの回答>

>さて、この分別を最初のレスポンスのカテゴリーに当てはめるてから、各議題への回答をしていきたいと思います。

一つ一つ当てはめて行くと・・・
①建物的提案としての議論:「広義の解体の作法」に関する議題
②生産論的な議論/合理性/コスト:「狭義の解体の作法」に関する議題
③実際の設計行為にまつわる話題:「広義」と「狭義」の中間に位置する議題

となります。
なので、①②③で回答の仕方が異なるのはご了承願えればと思います。


①の疑問について、「この提案の建築的新しさ」についてですが、
そもそも「解体の作法」とは、「(建築的)新しさ」に主眼に置いて提案をしているわけではないということを強く主張しなくてはいけません
この「君たちの提案は新しくないよね」という指摘は、頂く度に毎回「ん?」となってしまうのですが、
今回僕達が「解体」という言葉を出したのは
「建物にとって当たり前であるはずなのに、見捨てられている大切な視点(今回は「解体」)をちゃんと考えなくちゃダメだろう!」
といった心づもりが発端となっています。
なので、「『解体』が(建築的に)新しいかどうか」という議題自体がナンセンスで、「『解体』が建物(ひいてはモノづくり)にとって十分に確からしいかどうか」の方が大切な議題となります。
そもそも「新しさ・新規性・見たこと無い感」を追い求めるマインドも「(確からしい)新しさ・新規性・見たこと無い感」なのですから、「確からしさ」は「新しさ」に先行せざるを得ないわけです。

さらに言えば、「解体の作法」は建築的提案というよりは建物的提案という表現が適切なのではないかと思います。
この「建築」と「建物」の言葉使いの分別はまた別の議題になるので、後日改めて書くとして、
今回に関しては、「『建築』ではつくることしか教わらなかったから、そこに含まれることのない『解体』という言葉で『建物』に関する議題をつくる」というニュアンスで、「建築」ではなく「建物」と表現している次第です。


②の議題について、
ここからは「狭義の解体の作法」に関する議題となるわけですが、
最初に言及すべき点として、「(狭義の)解体の作法」は必ずしも生産論的議題が中心ではないということです。
もう少しくだけた表現をすると、今回の「解体の作法」は「生産として合理的・低コストを目指した提案ではない」ということで、
どちらかというと「建物の解体によって発見される住まいの価値をラグジュアリーに、贅沢に味わいましょう!」という方向性に近いのではないかと思います。
例えて言えば、ケータイ。
ケータイというものが出て来るまで、人々は月々こんなコストを払って生活していなかったわけです。
それが、今や月々余分なコストを払うのが当然になっていて、これはどういうことかと言うと「生活の新しい価値・豊かさ・世界観が発見・創造されたため、みんながそれに余分なコストを払うようになった」ということを意味しています。
コストというのは最適化されているように見えて、人間のラグジュアリーな価値追求に依存しているという端的な例だと思いますが、
要は「解体の作法」もそういった「住まいの価値・豊かさ・世界観の発見」を目指していて、
語弊は多分にありますが「これにならお金を払ってもいい」という価値を見いだしたいということです。
もちろん、コストを理にかなうレベルまで下げるのは必須ですし、
現在構想しているシステムでは、まだその要求が十分には満たしてはいないのですが、
大切なのは「世界観をシッカリと創ること」
そして、「一歩ずつ前進・改善すること」なので、
「まあ見てなさい、コレからですよ・・・!」
と言った感じでしょうか。
少なくとも「解体」を考えることの切実さは相当に確かなものであるので、
プロジェクトとしての説得力はこれから、議論や実施で徐々に鍛えて行くべき点かと考えています。


③の議題について、
①はバシッと白黒つけて、②はこれから精進して行きますというスタンスを取れたのに対して、
③は、正直なところ、なかなか回答が難しいグレーゾーンです。
③はおそらくメンバー同士でもかなり意見の割れるところで、これから精査していくべき内容かとは思います。
なので、ここからの回答は多分に個人的な解釈と立場が入って来ることをご了承願えればと思います。

5.解体する最終形態はどうなっているのか?
今回「ゆっくり解体することで住まいの豊かさを発見する」という前提があるので、
そもそも最終形態を思考するような建物へのアプローチではないということを、ます指摘する必要があります。
ただし、これは現実的な状況や問題が無い状態で設計案を練った場合(CS1)に限り、現実の場所や敷地(CS2)においては、絶対的な最終形態・最終目標ではないにしろ、「〜年以内の話だったら、外すことができない限定条件」というのが見えてきます。
例えば、木密地域での設計案は、場所の物理的条件がタイト(立て込み具合や人口密度が高い)ので、そういった物理的制約が10年スパンぐらいの守るべき形式性を導き出すという例が見られました
また、限界集落での設計案では、建物や敷地自体が大きいため、使えるスケールに分解することや、元々のコンストラクションにある程度依存して解体が進むという点を指摘できるかと思います。
(今回の展示では出していませんでしたが、僕らの間ではこれを短期的目標とか中・長期的目標と表現しています)
・・・まあ、そもそも、どんなモノだって作った当人が最終形態だと言い張ってもその後変化していってしまうわけですから、
「最終形態なんて相対的にしか存在しない概念なんだぜ!(でも相対的には存在するぜ!)」
というのが今回僕らがとるべき立場なのかと考えています。

6.空き家を対象としたプロジェクトなのか?
今回の展示で扱った建物の状況はどれも「空き家予備軍」と、僕らが呼んでいるものです。
これは、建物にとって住んでいる人の愛着はとても大切なもので、そういうものを継承してかないと家は家でも「死んだ家」になってしまうという問題意識があるからです。
「生きられた家・生きられた敷地/場所」として、次の世代に継承することこそが建物や場所にとって幸せであると考え、今回「ゆっくり解体する」と唱えているのもそのためであると言えます。
よってプロジェクトの対象は今回の展示では空き家ではなく、空き家直前の「空き家予備軍」です。
(ただ、「広義の解体の作法」に照らし合わせれば、今後空き家もプロジェクト対象になっていいと、個人的には思っています)

7.どのように建築家やコミュニティデザイナー(?)が関わって行くのか?
これは今、チームのなかでも一番議論すべき点・提案内容でも具体性を欠く点かとは思います。
基本的には、数年ごとの解体の都度、設計者達が立ち会うわけですが、
19日のシンポジウムでも話が上がっていた通り、コミュニティのデザインや不動産の管理までやるかもしれないといった具合です。
ここに関してはこれからの大きな詰めどころと言ったところでしょうか。

8.シェアを安易に唱えていいのか?(シェアは人を選ぶのではないか?)
これはおそらくチーム内でも意見が分かれるところなので、詳しい言及は避けたいところですが、
個人の意見としては、必ずしもシェアバンザイという立場ではないと言わせていただきたいと思います。
今回の提案は社会状況を取り持って組み立てた結果、シェアと親和性の高い案となりましたが、
僕らのチームとしても、ある意味「人を選ぶ」ということは覚悟してデザインをしていた点もありました。
しかし、ただ単に覚悟していれば良い問題ではなく、
シェアする人々のマッチングの次第によっては、人間関係において予期せぬ問題が大発生しかねないとも言えます。
ここのノウハウについては現在「解体の作法」にはありませんし、そのことについて、建築家の内藤廣氏からも、「家族について考えるべきでは?」という指摘を頂いた次第です。
どのような形でオトシマエをつけるかはまだ分かりませんが、これも、今後の詰めどころ・デザインのしどころなのかもしれません。

9.チーム名は?
色々な方から「なんて呼べばいいの?」という戸惑いの言葉を頂きました、申し訳ありませんw
「チーム解体」とかどうかなぁ、なんて思っていますが、どうなるかは乞うご期待!といったところで勘弁して下さいm(_ _)m



>こんなところで、解体の作法にまつわる大まかな概念構造の整理、および大まかな議題への回答をしてみました。
長くなりましたが、新たな疑問や質問、文句等をなんなりとぶつけてもらえれば、と。
次回は、建築学者の門脇耕三氏より指摘していただいた「カッティング・エッジの発見、カテゴライズへの疑問」に関する問題提起について考えていきたいと思います。