westminorityの日記

東京大学大学院建築学専攻 川添研(2012〜)←隈研(〜2011) 雑誌「新建築」にて月評執筆中! 聖光学院 GSDy 「解体の作法展」 卒制「明日の世界企業-ケーススタディ:ユニクロ-」 環境デザインコンペ2012 第四回長谷工コンペ 生きるための家展

「社会的責任の担保」、上からと、下からと、

突然ですが、僕は「建築家が社会的責任を担保する」という言葉に矛盾を感じています。

矛盾・・・というと表現が良くないのだけれども、建築家が「建築家として」社会的責任を担保する像が浮かばないからなのではないかと。

(ちなみに、ここで言う社会的責任とは都市や国、あるいはその他の概念による広域かつ匿名的な集団に対することを前提としています)

 

「社会的責任を担保」という言葉が想起する状況が正確ではないのかもしれません。

単純な話、このワードからは「上からの統治」つまり政治・政策の立場が見えるからです。

もちろん、建築家が政治家になってノウハウを活かしながら上からの統治を行っていくこと、それ自体には可能性があると考えてはいます(というか、そういう状況があって今の日本が出来ているわけですから...)が、

それは建築家が「政治家として」社会的責任を担保しているにすぎないと考えます。

もの凄く単純なロジックです。

つまり建築自体にできることはどこまで行っても「下から」であって、

それにこそ、建築独自の可能性があると捉えることです。

 

「政治が発言し続けるのであれば、建築は聴き続けなければいけない」

といったニュアンスでしょうか。

 

もしかしたら、

「ある建築が良いと認められ、あるプロトタイプとして社会に認められるのであれば、それは建築(家)が社会的責任を担保したと言えるのではないか?」

と捉える人もいるかもしれません。

僕も半分同意ですが、果たしてそこで社会的責任を担保しているのは建築(家)でしょうか。

おそらく、社会的責任を担保しているのは「プロトタイプ」であり「プロトタイプになるまで建築の情報を削った宣伝者」であると言えるでしょうし、それは建築20%、政治80%、それぐらいの行為に思えるのです。

図面や3Dモデルなどの流通可能な情報を建築の一部と考えることもできますが、

やはり「プロトタイプの流布」が社会的責任を担保出来ていると考えるのは、

論理的にも、現実に落とし込まれた例をとっても、

建築(家)が果たせる能力を十分には発揮出来ていないと考えられるのでしょう。

 

どこまで行っても下からであるということ

聴き続け、相互依存し続けることが可能性であるということ

トップダウンボトムアップという、「社会的責任の担保」の捉え方そもそもが現実にとって適切ではないのかもしれません。

そこには暗黙の了解として受け入れられている枠組みが、ある種の欺瞞として存在しているように感じます・・・未だ謎ではありますが(笑)

 

とりあえず、

社会的責任は決してパーソナルなものではないので、

それを目指すためには単純に「漠然とした大きなもの」を想定するはずです。

あるいは「建築家と施主だけに非ず」と言うのが正確なのでしょうか。

まるでボランティアのように、毎回の建築に都市への思いを込めるのは自由ですが、

そのあり方は建築的ではなく、

ハッキリいてしまえば、果たせなかった政治的鬱憤の憂さ晴らしでしかありません。

勝手にして下さいというレベルです。

シンポジウムは?

力はありますが、コレ自体では機能しません。

やはり別の建築行為のおまけ程度でしょう。

では教育機関はどうか?研究職はどうか?

「プロトタイプとしての社会的責任の担保という考え方」これよりは遥かに良い気がします。

ですが、肝心なところで建築自体に結びつかないので、ここは引き続き考える必要があるのでしょう。

 

「社会的責任の担保」、上からと下から、

僕が政治家になる必要はありませんし、意味も無く分野横断などしても知識の拡散でしかありあせん。

なので、引き続き「建築(家)」という形骸化した言葉から「社会的責任」という形骸化した言葉を掘り進めていきたいと思います。

こんな時、「建築(家)」という言葉が形骸化しているからこそ、自分に当てはめる立場としてはありがたいのかもしれないと、思ってしまう自分がいます。