westminorityの日記

東京大学大学院建築学専攻 川添研(2012〜)←隈研(〜2011) 雑誌「新建築」にて月評執筆中! 聖光学院 GSDy 「解体の作法展」 卒制「明日の世界企業-ケーススタディ:ユニクロ-」 環境デザインコンペ2012 第四回長谷工コンペ 生きるための家展

継続性のない理論は建築を語る上で害悪でしかない(新建築6月号月評に関する覚え書き)

(最初に:久しぶりのブログだったので敬語に統一するのをすっかり忘れていましたwww)

(雑誌「新建築」の月評(建築批評欄)を担当させていただいてからはや半年、建築を語ることで四苦八苦しながら色々と勉強させてもらっているといった感じだw

6月号は僕が執筆担当で、「建築の公共(性)」をテーマにして書かせていただいた。

 

今回執筆する上で注意したことは、「一回性の理論に回収されないこと」「対象とする各建築物にできる限り献身的に言葉を作っていくこと」で、

結果として、建築オタク的なテキストが出来上がった。

(※補足:建築オタク的なテキストとは、一般性の高い理論や論理的手順をテキスト全体で展開し続けることを主眼に置かず、あえて個々の建築物をそれぞれにおいて細かく叙述し考察するようなやり方である。誌面情報をなるべく細かく読み取り発想していくので、それぞれの建物にズブズブとのめり込んでいくような感じが、オタク的であるということだ。)

建築を語る時、特に「公共性」のような言葉を語る時に、論理的であることや理論を構成すること自体が穴だらけでスタティックになってしまうという実感があったので、「建築を勉強しているんだから、実物に対して半ば建築オタク的に振る舞うことが建築の公共性を語る回路を生むんじゃないか」というメタメッセージを込めてのことだった。

 

 

あえて言わせてもらえば、継続性のない理論は建築を語る上で害悪でしかない。

 

 

しかし、ある方(建築関係の方)から

「建築オタク的でフェティッシュなので読む価値がない/何も言っていない/公共性には理論で挑みたい」

という予想外の批判を頂いた。

テキストと建築の関係は理論と実践というにはあまりに複雑すぎて、「テキスト=建築物を表現する」という単純な一対一対応が成り立たないのは明らかだ。

そのため、モノの振舞いをできる限り詳細に捉えようとするテキストの方針は、少なくとも建築関係の人には共感してもらえるかなぁと期待していたのだが、まさかの身内に背中からグサリされた気分だったw

 

・・・とは言うものの、僕のテキストに至らない所があるとも思うし、だからこそこのようなミスリーディングが起きたとも思うので、

「建築とテキストのありうべき関係性」を自分なりに整理してみて、そこから6月号の月評に対して自己反省をしてみようと思う。

 

 

そもそも、論理(リテラルであること)とは、建築に限らず難しいものだなぁと、思うことがある。

論理的であることには必ずその「外側」が出来てしまうからだ。

例えば、あるテキストが一つの理論を論理的展開によって語る時、その理論が依拠するスタート地点、前提が必要になるけど、その前提自体への言及はできない。

前提を書くための前提が必要になってしまい、無限に遡行しなくてはいけないからだ。

そうなると、前提の前提を諦め、ケジメを付けて書いた前提には、必ず「論理の穴」が生じる。

特に建築においては、単純な論理性や理論では語り得ない思考体系、概念体系があるので、建築の可能性に理論を当てはめると、理論がカバーしきれない所が多々生じ、息苦しいものになってしまうことが多い。

もちろん、こうした「語り得ない建築の価値」をオーセンティシティとして神格化することは最もやってはいけないことなのだけれども、

建築のためのテキスト(批評など)は無批判的な理論を構成することを特に拒む。

 

 

以上の前提を踏まえて、「建築とテキストのありうべき関係性」として可能性のある方法を考えてみる。

(初めに言っておくと1〜3は矛盾する物ではなく、ハイブリット可能であると考えた方が良い)

1.テキスト内でも外でも、徹底的に論理的であり続けること。

2.テキストの外である建築「物」(あるいは活動それ「自体」)にシッカリとしたリンクが貼られているいること

3.論理から逸脱した「メタメッセージ」を準備し、自己言及的な回路を作っておくこと

4.テキストに価値を置かない(あるいは書かない)

4は論外であるとして、1〜3は建築をスタティックで安易な理論に回収されない方法として考慮してもいい作法なんじゃないかと考えている。

以下で一つ一つ説明を加えてみたい。

 

 

1について

 

1は常に論理的展開をし続けることで、安易な理論の定着を排除する、というものである。

このアプローチは建築家・藤村龍至を思い浮かべていただければ分かりやすい。

氏はテキストどころか建築物自体も徹底してリテラルであることを継続しており

(氏の提唱する超設計設計プロセスを参照していただきたい)、

理論の穴が出来れば、すぐさまリテラルな手順でそれを乗り越えていくという回路を常に準備している。

この「継続性」というのが、1のスタンスにはとても大切で、

「継続的に議論や論理を展開していけば今は届かないところにもいずれ届くようになる」という科学的な発展思考(延長)がこのアプローチのミソだ。

上述した「語り得ない建築の価値」に対しても、氏は建築物自体をリテラルな構築物として実践するという逆説的なアプローチによって、「今後未来まで継続すれば、いずれは語り得ないことへもアプローチできる」ということを担保できる。

 

逆に言えば、これぐらいしないと建築への論理性はスタティックな理論になってしまい、議論を硬直させ、科学的発展性(延長)をむしろ阻害してしまう

もし、論理性一本で建築にアプローチするのであれば、徹底した科学的スタンスと、それを可能にするバイタリティが求められる。

 

 

2について

 

2はテキストの世界を出て、語られる各建築物を中心に言葉を投げかけていくスタンスである。

ここでは、論理的であることや、一貫した理論が存在する以前に、実物にどれだけ依拠しているか、実物の現状や確からしい未来にどれだけ自分がデディケートできるかが試される。

建物への徹底した献身が行われるため、場合によっては設計者の意図とは異なる読み替えや、非常に些細なことと思われるような建物自体の現れに強烈な意味付与がなされる可能性を孕んでいる。

 

これはアーキテクチャ(≒建築)」「ビルディング(≒建物)」において、「ビルディング(≒建物)」が先行するというスタンスでもある。

概念体系であるアーキテクチャを一時的にでもキャンセルし、

ビルディングに対してオタク的な読み解きを多方向から行い、

そこから改めて「アーキテクチャ(≒建築)」を構成する、その繰り返しだ。

唯物論的アプローチであり、建築関係で言えば、「錯乱のニューヨーク」「メイド・イン・トーキョー」が例として挙げられるだろう。

 

 

3について

 

3はワザと穴のあるテキストを構成したり、裏の意図を作ったりすることで、読み手の振舞いを誘導するというというスタンスである。

例えば、ガチガチの理論をテキストにて構成できたとしよう。

そうすると、そのテキストは多くの人に一義的にしか読まれず、読み手は「ああなるほど」と分かった気にはなるけれども、

上述の「論理の穴」に気づかぬまま、現実に対する多大な誤認を堂々と行う(その不毛な流れを断ち切るために、1という手段もある)。

 

3におけるテキストへのアプローチは、その「一義性→気づかぬ論理の穴→自爆」を避けるため、あえて分かりやすい穴を見せ、その穴を中心に議論を行うという方法である。

炎上商法などというものもそれの一つで、突っ込みどころがあれば、みんなツッコムし、オモシロイ白紙があればみんな書き込みたくなるのだ(もちろん、ツマラナイ白紙ではだれも突っ込まない)。

3のスタンスを取る書き手は、穴によって誘発される議論や活動を「メタメッセージ」としてテキストに埋込み、テキストの意味内容に対して自己言及的な回路を設け、テキスト自身で自燃装置を構築する。

もちろん、そんな自燃装置もいつかは燃料切れになってしまう(つまり、突っ込みどころがいい加減なくなってくる)ので、そのときはまた改めてテキストを作っていかなくてはいけないのだけれども、

テキストがそのテキスト自身にメタなスタンスを許しているという3特有の構図は、燃料切れによってスタティックな理論が生まれることを拒む可能性も含む。

 

 

以上の3タイプに加え、4という不毛なスタンスが、現状僕が思いつく、「建築とテキストのありうべき関係性」だ。

 

ここで僕が執筆した新建築6月号の月評に戻ってみると、テキスト自体のスタンスとしては2と3のハイブリットに該当する

(このようにブログで自己反省している自分も含めると1も含まれる、ということになるのだが・・・)。

誌面情報に即して、各建築物へなるべく細かく読み取ろうとするスタンスは2に該当し、

理論や論理的帰結をあえて設けず、「公共性」をシニフィエ一時不在のシニフィアンとして、投げかけ(投企し)ている点は3に該当する。

 

・・・そう考えると、なるほど、至らないところがいくつか存在するようだ。

 

建築物への献身性が低く、自身の独善的な概念に走ってしまっているように映ってしまう箇所がいくつか存在し、

AU dormitory 1st phase」「表参道」の立体居への言及部分が特にそうだ。

前者は文章の書き方の問題が大きいと思うのだが、後者に関しては執筆時に視点が瓦解した感があったので、これは大きな反省点だ。

さらに、2のスタンスである「ビルディング→アーキテクチャ」という回路における、アーキテクチャが一見希薄で、

自分としては「ビルディングに献身的な姿勢を取ることこそが建築の公共性なのではないか」という気持ちだったのだが、「建築の公共性は楽しく無限」だけではミスリーディングになりかねない。

 

 

なお、最初に言及させていただいた批判は、私見では4に該当する。

つまり「安易な理論」を批評に求めるということだ。

4に落ち入るのであれば、いっそのこと全く喋らない方が良い、というのが僕の思う所だが、

理論は建築のような複雑怪奇な物に対して特効薬的な処方箋になりえるので、心を落ち着かせるにはちょうど良いのかもしれない。

 

 

繰り返すが、継続性のない理論は建築を語る上で害悪でしかない

 

特に、建築物に対して直に理論を当てはめることは、1のスタンスのように徹底しなければ毒にしかならない

建築家・菊竹清訓の言葉にもあるが「分かった気にならないでください」とはそのことだ。

安易な理論アプローチが建築の理解と可能性を硬直させる。

「語り得ない建築の価値」に対する批判的スタンス、

つまり、徹底した論理性か、テキストのエクリチュールとしての脱構築的批判性が、建築論に求められている。

 

「解体の作法」に関する覚え書き<その1-3、レスポンスへの回答>

>さて、この分別を最初のレスポンスのカテゴリーに当てはめるてから、各議題への回答をしていきたいと思います。

一つ一つ当てはめて行くと・・・
①建物的提案としての議論:「広義の解体の作法」に関する議題
②生産論的な議論/合理性/コスト:「狭義の解体の作法」に関する議題
③実際の設計行為にまつわる話題:「広義」と「狭義」の中間に位置する議題

となります。
なので、①②③で回答の仕方が異なるのはご了承願えればと思います。


①の疑問について、「この提案の建築的新しさ」についてですが、
そもそも「解体の作法」とは、「(建築的)新しさ」に主眼に置いて提案をしているわけではないということを強く主張しなくてはいけません
この「君たちの提案は新しくないよね」という指摘は、頂く度に毎回「ん?」となってしまうのですが、
今回僕達が「解体」という言葉を出したのは
「建物にとって当たり前であるはずなのに、見捨てられている大切な視点(今回は「解体」)をちゃんと考えなくちゃダメだろう!」
といった心づもりが発端となっています。
なので、「『解体』が(建築的に)新しいかどうか」という議題自体がナンセンスで、「『解体』が建物(ひいてはモノづくり)にとって十分に確からしいかどうか」の方が大切な議題となります。
そもそも「新しさ・新規性・見たこと無い感」を追い求めるマインドも「(確からしい)新しさ・新規性・見たこと無い感」なのですから、「確からしさ」は「新しさ」に先行せざるを得ないわけです。

さらに言えば、「解体の作法」は建築的提案というよりは建物的提案という表現が適切なのではないかと思います。
この「建築」と「建物」の言葉使いの分別はまた別の議題になるので、後日改めて書くとして、
今回に関しては、「『建築』ではつくることしか教わらなかったから、そこに含まれることのない『解体』という言葉で『建物』に関する議題をつくる」というニュアンスで、「建築」ではなく「建物」と表現している次第です。


②の議題について、
ここからは「狭義の解体の作法」に関する議題となるわけですが、
最初に言及すべき点として、「(狭義の)解体の作法」は必ずしも生産論的議題が中心ではないということです。
もう少しくだけた表現をすると、今回の「解体の作法」は「生産として合理的・低コストを目指した提案ではない」ということで、
どちらかというと「建物の解体によって発見される住まいの価値をラグジュアリーに、贅沢に味わいましょう!」という方向性に近いのではないかと思います。
例えて言えば、ケータイ。
ケータイというものが出て来るまで、人々は月々こんなコストを払って生活していなかったわけです。
それが、今や月々余分なコストを払うのが当然になっていて、これはどういうことかと言うと「生活の新しい価値・豊かさ・世界観が発見・創造されたため、みんながそれに余分なコストを払うようになった」ということを意味しています。
コストというのは最適化されているように見えて、人間のラグジュアリーな価値追求に依存しているという端的な例だと思いますが、
要は「解体の作法」もそういった「住まいの価値・豊かさ・世界観の発見」を目指していて、
語弊は多分にありますが「これにならお金を払ってもいい」という価値を見いだしたいということです。
もちろん、コストを理にかなうレベルまで下げるのは必須ですし、
現在構想しているシステムでは、まだその要求が十分には満たしてはいないのですが、
大切なのは「世界観をシッカリと創ること」
そして、「一歩ずつ前進・改善すること」なので、
「まあ見てなさい、コレからですよ・・・!」
と言った感じでしょうか。
少なくとも「解体」を考えることの切実さは相当に確かなものであるので、
プロジェクトとしての説得力はこれから、議論や実施で徐々に鍛えて行くべき点かと考えています。


③の議題について、
①はバシッと白黒つけて、②はこれから精進して行きますというスタンスを取れたのに対して、
③は、正直なところ、なかなか回答が難しいグレーゾーンです。
③はおそらくメンバー同士でもかなり意見の割れるところで、これから精査していくべき内容かとは思います。
なので、ここからの回答は多分に個人的な解釈と立場が入って来ることをご了承願えればと思います。

5.解体する最終形態はどうなっているのか?
今回「ゆっくり解体することで住まいの豊かさを発見する」という前提があるので、
そもそも最終形態を思考するような建物へのアプローチではないということを、ます指摘する必要があります。
ただし、これは現実的な状況や問題が無い状態で設計案を練った場合(CS1)に限り、現実の場所や敷地(CS2)においては、絶対的な最終形態・最終目標ではないにしろ、「〜年以内の話だったら、外すことができない限定条件」というのが見えてきます。
例えば、木密地域での設計案は、場所の物理的条件がタイト(立て込み具合や人口密度が高い)ので、そういった物理的制約が10年スパンぐらいの守るべき形式性を導き出すという例が見られました
また、限界集落での設計案では、建物や敷地自体が大きいため、使えるスケールに分解することや、元々のコンストラクションにある程度依存して解体が進むという点を指摘できるかと思います。
(今回の展示では出していませんでしたが、僕らの間ではこれを短期的目標とか中・長期的目標と表現しています)
・・・まあ、そもそも、どんなモノだって作った当人が最終形態だと言い張ってもその後変化していってしまうわけですから、
「最終形態なんて相対的にしか存在しない概念なんだぜ!(でも相対的には存在するぜ!)」
というのが今回僕らがとるべき立場なのかと考えています。

6.空き家を対象としたプロジェクトなのか?
今回の展示で扱った建物の状況はどれも「空き家予備軍」と、僕らが呼んでいるものです。
これは、建物にとって住んでいる人の愛着はとても大切なもので、そういうものを継承してかないと家は家でも「死んだ家」になってしまうという問題意識があるからです。
「生きられた家・生きられた敷地/場所」として、次の世代に継承することこそが建物や場所にとって幸せであると考え、今回「ゆっくり解体する」と唱えているのもそのためであると言えます。
よってプロジェクトの対象は今回の展示では空き家ではなく、空き家直前の「空き家予備軍」です。
(ただ、「広義の解体の作法」に照らし合わせれば、今後空き家もプロジェクト対象になっていいと、個人的には思っています)

7.どのように建築家やコミュニティデザイナー(?)が関わって行くのか?
これは今、チームのなかでも一番議論すべき点・提案内容でも具体性を欠く点かとは思います。
基本的には、数年ごとの解体の都度、設計者達が立ち会うわけですが、
19日のシンポジウムでも話が上がっていた通り、コミュニティのデザインや不動産の管理までやるかもしれないといった具合です。
ここに関してはこれからの大きな詰めどころと言ったところでしょうか。

8.シェアを安易に唱えていいのか?(シェアは人を選ぶのではないか?)
これはおそらくチーム内でも意見が分かれるところなので、詳しい言及は避けたいところですが、
個人の意見としては、必ずしもシェアバンザイという立場ではないと言わせていただきたいと思います。
今回の提案は社会状況を取り持って組み立てた結果、シェアと親和性の高い案となりましたが、
僕らのチームとしても、ある意味「人を選ぶ」ということは覚悟してデザインをしていた点もありました。
しかし、ただ単に覚悟していれば良い問題ではなく、
シェアする人々のマッチングの次第によっては、人間関係において予期せぬ問題が大発生しかねないとも言えます。
ここのノウハウについては現在「解体の作法」にはありませんし、そのことについて、建築家の内藤廣氏からも、「家族について考えるべきでは?」という指摘を頂いた次第です。
どのような形でオトシマエをつけるかはまだ分かりませんが、これも、今後の詰めどころ・デザインのしどころなのかもしれません。

9.チーム名は?
色々な方から「なんて呼べばいいの?」という戸惑いの言葉を頂きました、申し訳ありませんw
「チーム解体」とかどうかなぁ、なんて思っていますが、どうなるかは乞うご期待!といったところで勘弁して下さいm(_ _)m



>こんなところで、解体の作法にまつわる大まかな概念構造の整理、および大まかな議題への回答をしてみました。
長くなりましたが、新たな疑問や質問、文句等をなんなりとぶつけてもらえれば、と。
次回は、建築学者の門脇耕三氏より指摘していただいた「カッティング・エッジの発見、カテゴライズへの疑問」に関する問題提起について考えていきたいと思います。

「解体の作法」に関する覚え書き<その1-2、「広義/狭義の解体の作法」>

>ここからは「解体の作法」にまつわる大まかな概念構造を整理しながら、各議題へアプローチしたいと思います。

概念構造に関して、最初に指摘しておかなくてはいけないことに、
今回の解体の作法展には「広義の解体の作法」「狭義の解体の作法」が入り混じっているという点です。

語弊を恐れずに簡単に説明をすると
「広義の解体の作法」「建物全般を解体という視点から捉え直せば、新しい価値が生まれるのではないでしょうか?」という問いかけ(この「新しい価値」という言葉使いは不本意なので留意して頂きたい)であり、
「狭義の解体の作法」「建物を少しずつ解体しながら住み続けることで、これからの時代に合ったライフスタイル/設計行為が可能なのではないか」という社会的提案と、
分別することが出来るでしょう。
(これでも分かりにくいという場合は前者を「抽象的」後者を「具体的」とでも仮に設定していただければ問題ないと思います)

この分別に即して展示コンテンツを説明すると、
ケーススタディ1(以下CS1)およびケーススタディ2(CS2)において一般的な物件/どこにでもある建物を解体するところから発想・設計のドライブを行っているということ自体は「広義の解体の作法」にあたり、
諸先生方からのコメント集、キーワード集も全体としては「広義の解体の作法」に属すると言えるでしょう。
一方で、展示されているCS1の設計内容、および1/10模型(の空間構成・ボリューム感)CS2の各設計案の具体的内容は「狭義の解体の作法」と言えます。

さらにいくつかの言葉やアプローチは「広義」と「狭義」の中間を浮遊している状態で、
「ゆっくり解体する」というテーゼは「広義」にかなり近い状態で中間に位置しており、
それに続く「『解体の作法』で考える7つのこと」(以下「7ヵ条」)や縮退を示す各データは、「広義」と「狭義」のちょうど中間、
「空き家予備軍を扱う」「シェアを考える」などのさらに具体的なアプローチは「狭義」にかなり近い状態で中間に位置しているとみることが出来るかと思います。

つまるところ、
「広義の解体の作法」は「これは絶対に外せない限定条件=必要条件」であって、
「狭義の解体の作法」は「具体的な方法として現実に投げかける限定条件=十分条件となります。

僕らが建物のことを語る上で「解体」(という言葉)は相当高い強度でまとわりついて来る、
むしろまとわりつかざるを得ないもの(だって、どんなモノでも必ずいつかは変化する・壊れるわけですから)なので、
これ(つまり「広義の解体の作法」)には、絶対的な自信がありますし、このデザインにおける限定条件はこの活動をしている限り外すことはできません
「ゆっくり解体する」というテーゼも相対的にかなり高い強度があると言えますが、
解体の作法にとって「絶対的に」外せない!と言えるかと言うと0.5〜1%ぐらい信じられないと言ったニュアンス、
7ヵ条もなかなか外せないテーゼですが、まだまだ改善の余地が10〜30%、
各設計案の具体的内容や社会的状況の設定、そもそもの場所の3カテゴリー(木密・郊外・限界集落)などは、
絶対的な強度があるわけではないが、現状動ける範囲で(仮に)社会状況に置いた実験的なコマ、
とまあ、そんな感じです。
「広義」は『絶対譲れないぞ!」って感じだけれども、「狭義」は「批判も含めてどんどん文句言ってくれ!」って具合なんですね。



(<その1-3>に続く...)

「解体の作法」に関する覚え書き<その1-1、レスポンス内容>

ご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、
現在「解体の作法展」というものを新宿リビングデザインセンターで行っております
(ご来場して下さった方々にはこの場を借りてお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました!)
(まだいらしてない方は、まだまだやっているので是非来てね!)
12日、19日とシンポジウムも行わせていただき、(しかも満員御礼!)
この展覧会をキッカケに何かが始まるのではないかという、身の引き締まる思いを感じています。

22日までの展示なので、このイベントもあと二日で一区切りといったところなのですが、
そろそろ展覧会に対して頂いたレスポンスの方向性も見えて来たので、思考の整理がてら少しずつまとめてみたいと思います。
とりあえず<その1>ということで、
「解体の作法」にまつわる非常に大まかな概念構造の整理を行いながら、一般的なレスポンスに回答して行こうと思います。



>まず、今のところ目に止まったレスポンスを大まかに並べて見ると以下の通り、

1.実際のプロジェクトとしてすぐにでもやって行けるのではないか?/実際のプロジェクトとしてやったら、こんな簡単にはいかないのでは?
2.施工費、設計費用、その他の出費がかさんでしまうのではないか?(ローコスト.エコロジーな提案として矛盾を抱えているのではないか?)
3.建築的提案として「解体」という視点は現代的で新しいのではないか?
4.「解体の作法」で行っている「木造住宅の漸次的変更」は別に新しい話ではなく、昔からやられていたことなのでは?(当たり前のことを言っているのであって、提案の新しさが無いのではないか?)
5.解体する最終形態はどうなっているのか?
6.空き家を対象としたプロジェクトなのか?
7.どのように建築家やコミュニティデザイナー(?)が関わって行くのか?
8.シェアを安易に唱えていいのか?(シェアは人を選ぶのではないか?)
9.チーム名は?

さらに、それをカテゴリーとしてまとめると以下の通り、
①建物的提案としての議論:3、4
②生産論的な議論/合理性/コスト:1、2
③実際の設計行為にまつわる話題:5、6、7、8、9

こんな感じでしょうか、
(もし「他にもこんな疑問もあるよ!」というのがありましたら何なりと言って下さいw)

12日のシンポジウム後に建築学者の門脇耕三氏より指摘していただいた「カッティング・エッジの発見、カテゴライズへの疑問」に関する問題提起
19日のシンポジウムにてプレゼンテーターの三浦展氏より指摘していただいた「郊外の多様性」に関する問題提起については、また個別にて話を膨らまして行きたいので、
今回はまず大まかなところから。



(<その1-2>に続く...)

「社会的責任の担保」、上からと、下からと、

突然ですが、僕は「建築家が社会的責任を担保する」という言葉に矛盾を感じています。

矛盾・・・というと表現が良くないのだけれども、建築家が「建築家として」社会的責任を担保する像が浮かばないからなのではないかと。

(ちなみに、ここで言う社会的責任とは都市や国、あるいはその他の概念による広域かつ匿名的な集団に対することを前提としています)

 

「社会的責任を担保」という言葉が想起する状況が正確ではないのかもしれません。

単純な話、このワードからは「上からの統治」つまり政治・政策の立場が見えるからです。

もちろん、建築家が政治家になってノウハウを活かしながら上からの統治を行っていくこと、それ自体には可能性があると考えてはいます(というか、そういう状況があって今の日本が出来ているわけですから...)が、

それは建築家が「政治家として」社会的責任を担保しているにすぎないと考えます。

もの凄く単純なロジックです。

つまり建築自体にできることはどこまで行っても「下から」であって、

それにこそ、建築独自の可能性があると捉えることです。

 

「政治が発言し続けるのであれば、建築は聴き続けなければいけない」

といったニュアンスでしょうか。

 

もしかしたら、

「ある建築が良いと認められ、あるプロトタイプとして社会に認められるのであれば、それは建築(家)が社会的責任を担保したと言えるのではないか?」

と捉える人もいるかもしれません。

僕も半分同意ですが、果たしてそこで社会的責任を担保しているのは建築(家)でしょうか。

おそらく、社会的責任を担保しているのは「プロトタイプ」であり「プロトタイプになるまで建築の情報を削った宣伝者」であると言えるでしょうし、それは建築20%、政治80%、それぐらいの行為に思えるのです。

図面や3Dモデルなどの流通可能な情報を建築の一部と考えることもできますが、

やはり「プロトタイプの流布」が社会的責任を担保出来ていると考えるのは、

論理的にも、現実に落とし込まれた例をとっても、

建築(家)が果たせる能力を十分には発揮出来ていないと考えられるのでしょう。

 

どこまで行っても下からであるということ

聴き続け、相互依存し続けることが可能性であるということ

トップダウンボトムアップという、「社会的責任の担保」の捉え方そもそもが現実にとって適切ではないのかもしれません。

そこには暗黙の了解として受け入れられている枠組みが、ある種の欺瞞として存在しているように感じます・・・未だ謎ではありますが(笑)

 

とりあえず、

社会的責任は決してパーソナルなものではないので、

それを目指すためには単純に「漠然とした大きなもの」を想定するはずです。

あるいは「建築家と施主だけに非ず」と言うのが正確なのでしょうか。

まるでボランティアのように、毎回の建築に都市への思いを込めるのは自由ですが、

そのあり方は建築的ではなく、

ハッキリいてしまえば、果たせなかった政治的鬱憤の憂さ晴らしでしかありません。

勝手にして下さいというレベルです。

シンポジウムは?

力はありますが、コレ自体では機能しません。

やはり別の建築行為のおまけ程度でしょう。

では教育機関はどうか?研究職はどうか?

「プロトタイプとしての社会的責任の担保という考え方」これよりは遥かに良い気がします。

ですが、肝心なところで建築自体に結びつかないので、ここは引き続き考える必要があるのでしょう。

 

「社会的責任の担保」、上からと下から、

僕が政治家になる必要はありませんし、意味も無く分野横断などしても知識の拡散でしかありあせん。

なので、引き続き「建築(家)」という形骸化した言葉から「社会的責任」という形骸化した言葉を掘り進めていきたいと思います。

こんな時、「建築(家)」という言葉が形骸化しているからこそ、自分に当てはめる立場としてはありがたいのかもしれないと、思ってしまう自分がいます。

ブログで文章書きためることにしました。

以前一回やって、ネタが尽きてやめてしまったブログをもう一回やり始めることにしました。

というのも、ツイッターでは限界、というか、無理な読解を見て下さっている人に強いることが、最近実感出来たのです。

そのため、文章を書く訓練も含めて、少しずつ書きためていこうかなと考えた次第です。

 

イマイチよく分かってないことが多いですが、よろしくお願いします。