継続性のない理論は建築を語る上で害悪でしかない(新建築6月号月評に関する覚え書き)
(最初に:久しぶりのブログだったので敬語に統一するのをすっかり忘れていましたwww)
(雑誌「新建築」の月評(建築批評欄)を担当させていただいてからはや半年、建築を語ることで四苦八苦しながら色々と勉強させてもらっているといった感じだw
6月号は僕が執筆担当で、「建築の公共(性)」をテーマにして書かせていただいた。
今回執筆する上で注意したことは、「一回性の理論に回収されないこと」「対象とする各建築物にできる限り献身的に言葉を作っていくこと」で、
結果として、建築オタク的なテキストが出来上がった。
(※補足:建築オタク的なテキストとは、一般性の高い理論や論理的手順をテキスト全体で展開し続けることを主眼に置かず、あえて個々の建築物をそれぞれにおいて細かく叙述し考察するようなやり方である。誌面情報をなるべく細かく読み取り発想していくので、それぞれの建物にズブズブとのめり込んでいくような感じが、オタク的であるということだ。)
建築を語る時、特に「公共性」のような言葉を語る時に、論理的であることや理論を構成すること自体が穴だらけでスタティックになってしまうという実感があったので、「建築を勉強しているんだから、実物に対して半ば建築オタク的に振る舞うことが建築の公共性を語る回路を生むんじゃないか」というメタメッセージを込めてのことだった。
あえて言わせてもらえば、継続性のない理論は建築を語る上で害悪でしかない。
しかし、ある方(建築関係の方)から
「建築オタク的でフェティッシュなので読む価値がない/何も言っていない/公共性には理論で挑みたい」
という予想外の批判を頂いた。
テキストと建築の関係は理論と実践というにはあまりに複雑すぎて、「テキスト=建築物を表現する」という単純な一対一対応が成り立たないのは明らかだ。
そのため、モノの振舞いをできる限り詳細に捉えようとするテキストの方針は、少なくとも建築関係の人には共感してもらえるかなぁと期待していたのだが、まさかの身内に背中からグサリされた気分だったw
・・・とは言うものの、僕のテキストに至らない所があるとも思うし、だからこそこのようなミスリーディングが起きたとも思うので、
「建築とテキストのありうべき関係性」を自分なりに整理してみて、そこから6月号の月評に対して自己反省をしてみようと思う。
そもそも、論理(リテラルであること)とは、建築に限らず難しいものだなぁと、思うことがある。
論理的であることには必ずその「外側」が出来てしまうからだ。
例えば、あるテキストが一つの理論を論理的展開によって語る時、その理論が依拠するスタート地点、前提が必要になるけど、その前提自体への言及はできない。
前提を書くための前提が必要になってしまい、無限に遡行しなくてはいけないからだ。
そうなると、前提の前提を諦め、ケジメを付けて書いた前提には、必ず「論理の穴」が生じる。
特に建築においては、単純な論理性や理論では語り得ない思考体系、概念体系があるので、建築の可能性に理論を当てはめると、理論がカバーしきれない所が多々生じ、息苦しいものになってしまうことが多い。
もちろん、こうした「語り得ない建築の価値」をオーセンティシティとして神格化することは最もやってはいけないことなのだけれども、
建築のためのテキスト(批評など)は無批判的な理論を構成することを特に拒む。
以上の前提を踏まえて、「建築とテキストのありうべき関係性」として可能性のある方法を考えてみる。
(初めに言っておくと1〜3は矛盾する物ではなく、ハイブリット可能であると考えた方が良い)
1.テキスト内でも外でも、徹底的に論理的であり続けること。
2.テキストの外である建築「物」(あるいは活動それ「自体」)にシッカリとしたリンクが貼られているいること
3.論理から逸脱した「メタメッセージ」を準備し、自己言及的な回路を作っておくこと
4.テキストに価値を置かない(あるいは書かない)
4は論外であるとして、1〜3は建築をスタティックで安易な理論に回収されない方法として考慮してもいい作法なんじゃないかと考えている。
以下で一つ一つ説明を加えてみたい。
1について
1は常に論理的展開をし続けることで、安易な理論の定着を排除する、というものである。
このアプローチは建築家・藤村龍至氏を思い浮かべていただければ分かりやすい。
氏はテキストどころか建築物自体も徹底してリテラルであることを継続しており
(氏の提唱する超設計設計プロセスを参照していただきたい)、
理論の穴が出来れば、すぐさまリテラルな手順でそれを乗り越えていくという回路を常に準備している。
この「継続性」というのが、1のスタンスにはとても大切で、
「継続的に議論や論理を展開していけば今は届かないところにもいずれ届くようになる」という科学的な発展思考(延長)がこのアプローチのミソだ。
上述した「語り得ない建築の価値」に対しても、氏は建築物自体をリテラルな構築物として実践するという逆説的なアプローチによって、「今後未来まで継続すれば、いずれは語り得ないことへもアプローチできる」ということを担保できる。
逆に言えば、これぐらいしないと建築への論理性はスタティックな理論になってしまい、議論を硬直させ、科学的発展性(延長)をむしろ阻害してしまう。
もし、論理性一本で建築にアプローチするのであれば、徹底した科学的スタンスと、それを可能にするバイタリティが求められる。
2について
2はテキストの世界を出て、語られる各建築物を中心に言葉を投げかけていくスタンスである。
ここでは、論理的であることや、一貫した理論が存在する以前に、実物にどれだけ依拠しているか、実物の現状や確からしい未来にどれだけ自分がデディケートできるかが試される。
建物への徹底した献身が行われるため、場合によっては設計者の意図とは異なる読み替えや、非常に些細なことと思われるような建物自体の現れに強烈な意味付与がなされる可能性を孕んでいる。
これは「アーキテクチャ(≒建築)」と「ビルディング(≒建物)」において、「ビルディング(≒建物)」が先行するというスタンスでもある。
概念体系であるアーキテクチャを一時的にでもキャンセルし、
ビルディングに対してオタク的な読み解きを多方向から行い、
そこから改めて「アーキテクチャ(≒建築)」を構成する、その繰り返しだ。
唯物論的アプローチであり、建築関係で言えば、「錯乱のニューヨーク」や「メイド・イン・トーキョー」が例として挙げられるだろう。
3について
3はワザと穴のあるテキストを構成したり、裏の意図を作ったりすることで、読み手の振舞いを誘導するというというスタンスである。
例えば、ガチガチの理論をテキストにて構成できたとしよう。
そうすると、そのテキストは多くの人に一義的にしか読まれず、読み手は「ああなるほど」と分かった気にはなるけれども、
上述の「論理の穴」に気づかぬまま、現実に対する多大な誤認を堂々と行う(その不毛な流れを断ち切るために、1という手段もある)。
3におけるテキストへのアプローチは、その「一義性→気づかぬ論理の穴→自爆」を避けるため、あえて分かりやすい穴を見せ、その穴を中心に議論を行うという方法である。
炎上商法などというものもそれの一つで、突っ込みどころがあれば、みんなツッコムし、オモシロイ白紙があればみんな書き込みたくなるのだ(もちろん、ツマラナイ白紙ではだれも突っ込まない)。
3のスタンスを取る書き手は、穴によって誘発される議論や活動を「メタメッセージ」としてテキストに埋込み、テキストの意味内容に対して自己言及的な回路を設け、テキスト自身で自燃装置を構築する。
もちろん、そんな自燃装置もいつかは燃料切れになってしまう(つまり、突っ込みどころがいい加減なくなってくる)ので、そのときはまた改めてテキストを作っていかなくてはいけないのだけれども、
テキストがそのテキスト自身にメタなスタンスを許しているという3特有の構図は、燃料切れによってスタティックな理論が生まれることを拒む可能性も含む。
以上の3タイプに加え、4という不毛なスタンスが、現状僕が思いつく、「建築とテキストのありうべき関係性」だ。
ここで僕が執筆した新建築6月号の月評に戻ってみると、テキスト自体のスタンスとしては2と3のハイブリットに該当する
(このようにブログで自己反省している自分も含めると1も含まれる、ということになるのだが・・・)。
誌面情報に即して、各建築物へなるべく細かく読み取ろうとするスタンスは2に該当し、
理論や論理的帰結をあえて設けず、「公共性」をシニフィエ一時不在のシニフィアンとして、投げかけ(投企し)ている点は3に該当する。
・・・そう考えると、なるほど、至らないところがいくつか存在するようだ。
建築物への献身性が低く、自身の独善的な概念に走ってしまっているように映ってしまう箇所がいくつか存在し、
「AU dormitory 1st phase」や「表参道」の立体居への言及部分が特にそうだ。
前者は文章の書き方の問題が大きいと思うのだが、後者に関しては執筆時に視点が瓦解した感があったので、これは大きな反省点だ。
さらに、2のスタンスである「ビルディング→アーキテクチャ」という回路における、アーキテクチャが一見希薄で、
自分としては「ビルディングに献身的な姿勢を取ることこそが建築の公共性なのではないか」という気持ちだったのだが、「建築の公共性は楽しく無限」だけではミスリーディングになりかねない。
なお、最初に言及させていただいた批判は、私見では4に該当する。
つまり「安易な理論」を批評に求めるということだ。
4に落ち入るのであれば、いっそのこと全く喋らない方が良い、というのが僕の思う所だが、
理論は建築のような複雑怪奇な物に対して特効薬的な処方箋になりえるので、心を落ち着かせるにはちょうど良いのかもしれない。
繰り返すが、継続性のない理論は建築を語る上で害悪でしかない。
特に、建築物に対して直に理論を当てはめることは、1のスタンスのように徹底しなければ毒にしかならない。
建築家・菊竹清訓氏の言葉にもあるが「分かった気にならないでください」とはそのことだ。
安易な理論アプローチが建築の理解と可能性を硬直させる。
「語り得ない建築の価値」に対する批判的スタンス、